2011年11月20日日曜日

京都 豊臣秀吉 ゆかりの地

京都駅より豊臣秀吉ゆかりの地をめぐってきました。

このブログでも何度か紹介した耳塚(鼻塚)です。
 この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598年)にかかる遺跡である。


 秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。


 「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に立つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と思われる。 秀吉が引き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。

耳塚より東に少しあるくと豊国神社があります。
 秀吉を祀る豊国神社は、豊臣家滅亡後、家康に取り壊されましたが、明治13年に再建されました。参道にある唐門は、伏見城の城門の一つで国宝に指定されています。

方広寺は豊国神社のすぐ北にあるお寺です。
記録では、天正14年(1586)に秀吉が奈良・東大寺にならって大仏造立を決定し、文禄4年(1595)にはほぼ大仏殿が完成していたようです。
当初、全高約19mあったという木製大仏ですが、初代大仏殿の規模は現在も不明です。

大阪冬の陣にて徳川家康に豊臣家が滅ぼされたきっかけとなった「君臣豊楽・国家安康の梵鐘」

方広寺より南に少しさがると三十三間堂があります。今日は通過しただけ。

三十三間堂を左に東に歩いていきます。

つきあたりを少し北にいくと東側に豊国廟(ほうこくびょう)参道がある。



東の方に坂道を登って行くとひとつ目の階段にさしかかる。

階段を上ると広い石畳。

これより先に行くには参拝料が必要です。

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豊国廟ご参拝の皆様へ
これより先、山頂の豊臣秀吉公御廟所へご参拝の方は、授与所にて登拝券をお求め下さい。
授与所に係員不在の場合は石段下の柵に設置してございます「志納金箱」に登拝料をお納め下さい。

大人 50円
小・中学生 30円

豊国神社 社務所
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豊国廟登拝券
正面の階段は489段あると書いてある。余裕かな。

さらに石畳を進むと階段が見えてきた。
さあ登るぞ!!




階段の奥の方で何か動いている・・・犬か?!なんとサルが2匹でこちらを伺っています。さすが秀吉ゆかりの地です。逃げて行くかと思いきやサルの方から近づいて来ました。口を開けて威嚇してきたので棒で追い払いました。野生のサルは危ないです。
さあ頂上に着いたと思ったら中間地点です。昼間だというのに少し薄暗い。ちょっと不気味。


もうひと頑張り。結構しんどいです